北国新聞記事の最近のブログ記事


その池は富山県境に近い、人口二十一人の集落、津幡町北横根にあった。地元住民の案内で黄金色の稲穂が広がる農道を登り、たどり着いた池は、約二十メートル四方のごくありふれたもの。地図にないが〔「御手洗池(みたらしいけ)」と呼ばれていた。「太子自ら彫った像らしい」「像はすでに引き上げられた」「沈んでいた時は水面に光を放っていたと聞く」



聖徳太子の像が隠されたと伝わる御手洗池  =津幡町北横根


秘仏
池を眺めていると、次々とご年配が農作業の手をとめ、この地に伝わる話を教えてくれた。総合すると、像は現在、砺波市の浄土真宗の寺、景完教寺にあり、年に一度開帳される秘仏として扱われていた。北横根は一三〇〇年前後に同寺を開いた僧・了通が、太子像を奉持し隠住した地であることも分かった。
しかし、なぜ大切な像を水中に。住職の瀬尾秋衛さん(七〇)に尋ねると、戦乱の世、人災を避けようと像を越中の同寺からゆかりの北横根へ運んだが、追っ手が迫り、やむを得ず石棺に入れて池の底に隠したという。
ただ、昭和にまとめた寺伝には、いつの戦乱か、追っ手が何者か記載がなく、池から引き上げた時期が天正年間(一五七三ー九二年)以降ということしか分からない。戦乱は戦国武将の攻防か、はたまた一向一撲に絡むのか。寺の古文書も江戸時代の火事で灰燼(かいじん)に帰し、今となっては謎だ。
謎と言えば、情報を寄せる北横根の住民は皆、なぜか話したくてうずうずしているよう。




病気平癒を願う姿の聖徳太子孝養像(景完教寺提供)

伝説
それもそのはず、今月三十日に寺の門信徒一行がルーツの池を訪れる予定で、小さな集落で一番の話題だからだ。「池の太子伝説を大勢に知ってもらい、砺波との交流を進めたい」と、中多弘さん(六八)ら住民は意気込んでおり、瀬尾住職も「石川での展示を機に北横根とのつながりを大切にしたい」と、太子の取り持つ縁に感慨深げだ。

北陸の聖徳太子像

浄土真宗の宗祖親鸞は夢で聖徳太子のお告げを得て念仏を始めたと伝えられることから、真宗王国の北陸では聖徳太子像が多数残された。南無仏太子像と呼ばれる二歳像、父の病気平癒を願う十六歳像(孝養像)などがあり、景完教寺の秘仏は木造、高さ約50センチの孝養像。

初の「赤ちゃん登校日」

金沢・野町小

乳児との交流で思いやりの心をはぐくむ「赤ちゃん登校日授業」は五日、金沢市野町小で始まった。五年生四十二人が生後二ー十力月の乳児と触れ合い、赤ちゃんの肌のぬくもりから命の尊さを感じ取った。

「赤ちゃん登校日」は子育てにやさしい企業推進協議会といしかわ子育て支援財団が県内で初めて実施した。初回は乳児と父母三十二組を迎え、児童は絵本やおもちゃで赤ちゃんをあやしながら、親から名前の由来や出産、育児の体験談などを聞いた。

アドバイザーを務めた鳥取大医学部の高塚人志准教授は「抱かれることが安心という心の礎を作る。母親と違う人を感じることは赤ちゃんが人間関係を作っていく上でも重要」などと、触れ合いの意義を強調した。

おむつ交換にも挑戦した林ゆかりさんは「初めて赤ちゃんと触れ合ったけど、すごく柔らかくて温かかった」と笑顔を見せた。同小では全三回、赤ちゃん登校日授業を実施する。

赤ちゃんと交流する児童

=金沢市野町小

平成20年9月6日付け北国新聞記事より

新婦の出身地・新潟の祭り  

披露宴で再現

新郎新婦らがキツネの面を着けて入場する結婚披露宴が二十三日、七尾市和倉温泉のあえの風で開かれた。新婦の出身地である新潟の祭りを再現した企画で、神秘的な演出が出席者らを驚かせた。式を挙げたのは七尾市小島町の宮崎大地さん(26)と新潟市出身の石山千佳代さん(24)。新潟県津川町では新婦が化粧や動作でキツネに扮する「狐の嫁入り」行列が毎年五月に行われており、石山さんが古里への愛着と独創性を強調する狙いで再現を提案した。

篠笛が響き、ろうそくの明かりの中、提灯に先導されて人力車に乗った二人が入場すると会場にどよめきが起きた。行列参加者全員が面を着け、二人の門出を祝った。

キツネの面をかぶり入場した新郎新婦=七尾市和倉温泉の旅館

平成20年8月24日付け北国新聞より

北陸の冬に強い見方

建物や人に大きな被害をもたらす落雷を未然に防ぐ「消雷装置」を金沢工大産学連携室の饗庭貢教授が開発し、二十一日までに特許を取得した。従来の避雷針と組み合わせて建物に取り付けることで、落雷の50%から70%を打ち消せるという。饗庭教授は実用化を目指し、今月から金沢市古府二丁目のテレビ金沢屋上で実証実験を開始する。

雷は高い所に落ちやすく、金属に引き寄せられる。避雷針はこの性質を利用して雷を引き受け、周辺の建物や人への落雷を防いでいる。しかし、避雷針への落雷でも衝撃は大きく、建物内にいる人が感電したり機器が壊れたりする場合も多い。

開発した装置は電気を通さない特殊なガラス製で、数十センチの円筒形。避雷針に取り付けると、雷を招く原因である空気中の電子の移動を打ち消す効果があり、結果として落雷を阻止できる仕組みだ。

実用化へ実証実験

金沢市観音堂町のテレビ放送所と、テレビ金沢社屋には饗庭教授によって同じ避雷針が設置され、二〇〇五(平成十七)年八月から試験的に、テレビ金沢の避雷針にのみ消雷装置が付いている。

「装置を取り付けて以来、落雷被害はなくなった」(関係者)とされ、饗庭教授は今月から冬にかけての実証実験で落雷の強さや頻度を比較し、装置の有効性を確かめる。

金沢工大・饗庭教授特許を取得

落雷日数が年間平均四十日を超える金沢は世界的にみても激雷地で知られる。饗庭教授は「停電で機械が止まると損失が大きい工場や高層ビルで需要があるだろう。将来は家庭に普及できるほど安くしたい」と話し、今秋には装置についての論文を日本電気設備学会一に投稿することにしている。

避雷針に取り付けられた「消雷装置」(赤点線囲み部分)

平成20年8月22日付け北国新聞記事より

金石の道入寺が公開

金石西三丁目の天台宗道入寺は十三日、江戸中期の絵師円山応挙が描いたものとされる「飴買い幽霊」の掛け軸を公開した。暑い日が続く中、地元住民や墓参り客が幽霊画に手を合わせ、一服の涼を得た。

同寺の言い伝えによると、掛け軸に描かれた女性は「たみ」という名で、江戸中期、出産を前に亡くなり同寺に埋葬された。その後、付近の飴屋に飴を買いに来る女性が現れ、飴屋が後を追うとたみさんの墓前で消えた。同寺の和尚と共に墓を掘ると、遺体の横に飴をくわえた男の赤ちゃんがいた。飴を食べて生き永らえた赤ちゃんは後に同寺の七代目住職になったという。

同寺は掛け軸保存のため、観光客から要望があった時のほか三月十五日の涅槃会(ねはんえ)と八月中旬の旧盆にだけ公開しており、今年の旧盆時期の公開は十六日までとなっている。

公開した掛け軸の前で手を合わせる白崎良螢住職

金石西3丁目の道入寺

北国新聞 平成20年8月14日 記事より

朽ちた石碑の正体は

夏休みを控えたある日、当てもなく金沢市野町小を訪れると、校庭の片隅で倒れかけた石碑が目に留まった。「これがねえ、実は由緒正しい石碑だと分かったんですよ」。山下良夫校長がにんまりしながら言う。文化勲章受章者の天文学者木村栄(きむらひさし)の恩師、越田善七の還暦を祝う碑だったことを山下校長が突き止めたらしいのだ。二十三日、倒壊寸前の石碑は新たに作られたコンフリート製の土台に置き直され、学校の新たなシンボルとなった。それにしても、校長の心を揺さぶった越田善七ってだれだ?

「謎、危険」一転「校下の先人に学べ」

善七の寿碑はもともと、石積みを含めて高さ約四メートルで、約五十個の積み石の上に碑が乗っていたという。しかし、長年の風雪に耐えかね、表面は風化、絡まったツタで何の碑であるかさえ判別しづらく、積み石も数個外れかけていた。倒壊の危険が指摘され、児童は碑に近寄らないよう指導されていたほどで、学校にとっては、どちらかと言えば厄介な存在だったらしいのだ。

昨年春、同小に着任した山下校長は、現場の教師から指導を徹底するよう求められたという。しかし、「ちょっと待てよ」と石碑の由来を調べるうちに、多忙な中にあって私塾を開いた善七の碑であることを知り、その教育熱心さに感銘を受けた。

私塾も開く

山下校によると数学者越田善七は教師の傍ら、野町三間道(現野町三丁目)の自宅で塾を開き、和算を教えた人物で、「Z項」の発見で知られる木村栄博士も門下生だった。碑文には明治三十六(一九〇三)年とあり、門人が還暦を迎えた善七の長寿を願って建立した碑とされる。当初予定された金沢神社境内での設置計画はとん挫したが、善七没後の一九一九(大正八)年、門下生が塾の近くにあった時宗玉泉寺境内に設置した。しかし、同小の建て直しで学校敷地が広がり、碑が校門の内側に取り込まれてしまうと管轄があいまいになったという。

善七のひ孫・越田隆幸さん(六七)=野町三丁目=は「父の代に同小に寄付した」と記憶するが、校長の代替わりを経てそのことが忘れ去られ、学校側は同校の管理外にある忠魂碑のたぐいと考えていた。このため、どちらも手を付けることなく放置され、荒れ放題となっていた。

生き様に感銘

山下校長は善七の生き様に感銘を受け、越田さんの許可を得て、教員が目標とすべき真の教育者として顕彰することを決意し、土台の整備に乗り出したのだった。「逆風が吹き荒れる教育現場で、教員は自信を失っている。善七は多忙な中にあっても多くの人を育て上げ、木村博士のような大成者まで輩出し、門下生から慕われた。校下の先人を鏡とし、誇りを持って日々業務にあたって欲しい」。熱っぽく語る山下校長に全く同感だ。厄介者が一転、学校のシンボルになった経緯を知るにつけ、街を歩くと、磨けば光る玉がまだまだ見つかるよ、つな気がしてきた。

(荒木雄輔)

円内は越田善七。土台に乗せられる善七の碑を感慨深げに眺める山下校長

=金沢市野町小

整備前の石碑。一部の積み石が崩れかかっていた

(金沢市提供)

北国新聞7月24日より

羽咋・永光寺

羽咋市酒井町、曹洞宗永光寺は、同寺でまつる同宗の高僧で大乗寺(金沢市)を開いた徹通義介像を特別公開している。 宗門最古とされる像で、同禅師の七百回忌を機に初めて一般公開した。


三月から公開を始めた像は桧の寄せ木造りの座像で高さは百五㌢。南北朝時代に仏像の職人集団「院派仏師」が造ったとされ、 県の指定文化財になっている。


漆塗りで表情も豊かな像は法堂(本堂)の背後の伝燈院の正面に置かれ、これまでは僧のみに参拝が許されていた。公開は十一月末までで、 特別拝観料七百円が必要。問い合わせは同寺

=0767(26)O156=

080404-徹通禅師像を初公開1


初めて公開されている徹通禅師の座像
=羽咋市の永光寺

徹通禅師


越前の永平寺を開いた道元禅師の弟子で、永平寺の3代目。永光寺にとっては同寺を開いた瑩山
紹瑾(けいざんじょうきん)禅師の師にあたり、「五老峯」で曹洞宗の5人の高僧の1人としてまつられている。

平成20年4月4日 北国新聞 より


金沢の照円寺 地獄を疑似体験

金沢市笠市町の浄土真宗本願寺派照円寺で二十日から四日間、春の彼岸に合わせて「地獄極楽絵図」が開帳され、 絵解きを聞くことができる。取材先で話題になり、「初めて見ると腰抜かすぞ」と脅された。地獄に行くつもりはないが、 怖い物見たさが手伝って、恐る恐る未知の世界をのぞいてみることにした。

(本江 亜珠佳)

 

080321-地獄極楽1

春の彼岸、絵図を開帳


赤々と燃え立つ業火に焼かれ、体が引き裂かれ、煮えたぎる釜でゆでられる亡者たち。すさまじい形相の鬼から逃げ惑い、 恐怖と痛みに表情をゆがませる男女もいる。


本堂に足を踏み入れ、十八幅の掛け軸に描かれた流血、残虐の様子を目の当たりにし思わず息をのんだ。 門徒の上田毅さん(八二)の絵解きに耳を傾けると、絵図は八大地獄などを表し、盗みや男女間の過ち、 だましを重ねた者が罰を受けているのだという。

子連れで拝観


おどろおどろしい場面は大人でも怖いのに、本堂を見渡すと子連れが多いことに気付く。 初めて絵図を見た近藤瑠璃さん(九つ)と芳龍君(七つ)は、「これからはふざけてうそつかん」「ご飯を残さんと食べる」と表情をこわばらせ、 決意を口にした。


二人の祖父の自営業越田克茂さん(六四)=金沢市=は「私も子どものころ何回も連れてこられて怖かったもんや。 悪いことをするとひどい目に遭うんやと思い知らされる」とうなずく。


地獄絵は人々に恐怖を疑似体験させ、弥陀の救済を希求させる狙いがある。地獄絵を見て泣き出す子もいるというから、 リアルなCG映像に慣れた現代の子にも強烈な印象を与えているようだ。


子どもをおびえさせる絵図は、大人には違った楽しみ方をされてきたとの指摘もある。地獄絵で半裸の女性亡者がもだえ苦しむ様に、 男性拝観者がエロスを感じるという内容だ。上田さんの見解はどうだろう。「道ならぬ愛情と欲望の成れの果てがこの形」 などとけむに巻かれてしまう。地獄絵の見方はそれぞれというわけか。上田さんによると、描かれた時期と作者は分からないという。 一九六七(昭和四十二)年には、寺が地獄絵図さながらの火災に遭遇したが、絵図は被害を免れた。何か不思議な力を感じる。

極楽に一安心


最後に、仏の慈悲によって救われた人々が到達する世界を示す極楽の絵を見てほっと一安心した。上田さんの「争い、憎しみ、苦しみが無い」 という説明に、品行方正を誓う。それにしても地獄極楽の絵の「しつけ力」には恐れ入った。
 

080321-地獄極楽2

 

極楽浄土が描かれた場面

平成20年3月20日 北国新聞 より

3・25能登半島地震 あれから1年

春分の日の朝、強い海風に逆らって輪島の港町を行く僧の姿があった。 昨年三月二十五日の能登半島地震で全壊した曹洞宗興禅寺(輪島市門前町)の住職、市堀玉宗さん(五二)である。 寺の再建を目指して昨年から始めた托鉢行脚は、既に半島二巡目に入っている。「遠いからあるく」。 この言葉に突き動かされた市堀さんは丈夫な白足袋を一足、履きつぶしていた。

一年前のあの日、犠牲者が出なかったことが奇跡に思える。強烈な縦揺れに、古刹はひとたまりもなかった。 崩れた建物のすき間から妻や近所の婦人らが何とか全員、はい出すことができた。がれきの山から見上げた空の青さが忘れられない。

再興の旗印


崩れ落ちたケヤキのはりで作った塔婆と「再生」の文字を記したさい銭箱を寺の跡地に据えた。再興への旗印である。しかし、 寺再建の経験などあろうはずもなく、いくらかかるか見当もつかない。京都のとある寺にそれとなく尋ねると「立派なものなら坪二百万円やね」 と言われ、がく然とした。約百三十坪の興禅寺を元通りにするには莫大な費用がかかる。わずか三十軒の檀家に頼るわけにいかない。 多くが自分と同じ被災者である上に、老老介護の夫婦や施設入所者もいるからだ。


市堀さんが托鉢を始めたのは昨年六月。日々のお勤めの合間を縫って、月の半分は托鉢に回り、珠洲から金沢まで、各地を渡り歩いた。 「メタボ(リックシンドローム)の解消になりますよ」とうそぶく市堀さんだが、冬場はひどい赤ぎれに悩み、足にテーピングしての行脚は「行」 そのものと言ってよかった。

真心に出会う


孤独な再建の道行きを決意したとき、市堀さんの頭に浮かんだのが「遠いからあるく」だった。定かではないが、科学者の言葉だっただろうか。 遠くにあるのは寺院の再興であり、僧侶として追い求める真理でもある。托鉢の旅の門出に、この言葉をしたため、寺の掲示板に張り出した。


昼食も取らず、朝から夕方まで歩き通す日もある。「百軒回って一軒応えてくれるかどうか。それでも孤独じゃないと気付いたんです」。 市堀さんを追いかけて来て「少ないけど」と浄財を寄せる人がいた。無心で歩くうち思わぬ真心に出会う喜びが胸を満たしていく。
「まいてきた縁の種を刈り取りながら、未来に向けて種まきをしている。建物も大事だが、目に見えない心をこそ、次の代に伝えたいんです」


渡り鳥に姿重ね


「雲に鳥仏弟子といふ旅人に」


托鉢に励む日々の中、俳人でもある市堀さんが、北の空へ飛び去る渡り鳥の姿に自身を重ね合わせて詠んだ一句である。檀家の位牌や本尊は、 住職を兼務する輪島市鳳至町の永福寺に今も「仮住まい」している。寺院復興という目的地ははるか彼方だ。


「遠いからあるく」。すっくと前を見据える瞳に迷いはない。

(竹森 和生)

  080321-寺復興1
寺院の再建を目指し、托鉢を続ける市堀住職=輪島市風土町

平成20年3月21日 北国新聞より

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