2008年7月アーカイブ
朽ちた石碑の正体は
夏休みを控えたある日、当てもなく金沢市野町小を訪れると、校庭の片隅で倒れかけた石碑が目に留まった。「これがねえ、実は由緒正しい石碑だと分かったんですよ」。山下良夫校長がにんまりしながら言う。文化勲章受章者の天文学者木村栄(きむらひさし)の恩師、越田善七の還暦を祝う碑だったことを山下校長が突き止めたらしいのだ。二十三日、倒壊寸前の石碑は新たに作られたコンフリート製の土台に置き直され、学校の新たなシンボルとなった。それにしても、校長の心を揺さぶった越田善七ってだれだ?
「謎、危険」一転「校下の先人に学べ」
善七の寿碑はもともと、石積みを含めて高さ約四メートルで、約五十個の積み石の上に碑が乗っていたという。しかし、長年の風雪に耐えかね、表面は風化、絡まったツタで何の碑であるかさえ判別しづらく、積み石も数個外れかけていた。倒壊の危険が指摘され、児童は碑に近寄らないよう指導されていたほどで、学校にとっては、どちらかと言えば厄介な存在だったらしいのだ。
昨年春、同小に着任した山下校長は、現場の教師から指導を徹底するよう求められたという。しかし、「ちょっと待てよ」と石碑の由来を調べるうちに、多忙な中にあって私塾を開いた善七の碑であることを知り、その教育熱心さに感銘を受けた。
私塾も開く
山下校によると数学者越田善七は教師の傍ら、野町三間道(現野町三丁目)の自宅で塾を開き、和算を教えた人物で、「Z項」の発見で知られる木村栄博士も門下生だった。碑文には明治三十六(一九〇三)年とあり、門人が還暦を迎えた善七の長寿を願って建立した碑とされる。当初予定された金沢神社境内での設置計画はとん挫したが、善七没後の一九一九(大正八)年、門下生が塾の近くにあった時宗玉泉寺境内に設置した。しかし、同小の建て直しで学校敷地が広がり、碑が校門の内側に取り込まれてしまうと管轄があいまいになったという。
善七のひ孫・越田隆幸さん(六七)=野町三丁目=は「父の代に同小に寄付した」と記憶するが、校長の代替わりを経てそのことが忘れ去られ、学校側は同校の管理外にある忠魂碑のたぐいと考えていた。このため、どちらも手を付けることなく放置され、荒れ放題となっていた。
生き様に感銘
山下校長は善七の生き様に感銘を受け、越田さんの許可を得て、教員が目標とすべき真の教育者として顕彰することを決意し、土台の整備に乗り出したのだった。「逆風が吹き荒れる教育現場で、教員は自信を失っている。善七は多忙な中にあっても多くの人を育て上げ、木村博士のような大成者まで輩出し、門下生から慕われた。校下の先人を鏡とし、誇りを持って日々業務にあたって欲しい」。熱っぽく語る山下校長に全く同感だ。厄介者が一転、学校のシンボルになった経緯を知るにつけ、街を歩くと、磨けば光る玉がまだまだ見つかるよ、つな気がしてきた。
(荒木雄輔)

円内は越田善七。土台に乗せられる善七の碑を感慨深げに眺める山下校長
=金沢市野町小

整備前の石碑。一部の積み石が崩れかかっていた
(金沢市提供)
北国新聞7月24日より
11日に施餓鬼法会をしてから16日までお盆を向かえお墓でお経をあげておりました。
本年は昨年より板キリコが多く、なんだかお墓の前が寂しく感じましたね。
やはり昔ながらのキリコが風物詩として自分の心のなかにも定着していましたので寂しくもあります。
